SIAM SHADE

簡(jiǎn)介: 小檔案
栄喜(ヒデキ:ボーカル)
KAZUMA(カズマ:ボーカル&ギター)
DAITA(ダイタ:ギター)
NATIN(ナッチン:ベースギター)
淳士(ジュンジ:ドラム)?
元メンバー
ATARU(アタル 更多>

小檔案
栄喜(ヒデキ:ボーカル)
KAZUMA(カズマ:ボーカル&ギター)
DAITA(ダイタ:ギター)
NATIN(ナッチン:ベースギター)
淳士(ジュンジ:ドラム)?
元メンバー
ATARU(アタル:ギター ※前身バンド、アタールのリーダー)
A(EI)(エイ:ドラム)
小簡(jiǎn)介
バンド名は「密接した陰」という意味の英語に由來する。
リーダーはNATINである。理由は、インディーズ時(shí)代ほかのメンバーが金が無くて電話を止められていたのに対し、NATINだけは実家にいたため、連絡(luò)先として重要な役割を果たしていたから。
初期は「ロック界のザ?ドリフターズ」を自稱するほどコメディに走っており、ツアーごとにショートコントムービーを作っていた。(ビデオ「SIAM SHADE」に、その一部が見られる)また、エンドロール後に「TIME'S」のパロディ版が収録されている)なお、所屬していた事務(wù)所?アミューズの俳優(yōu)陣がゲスト出演しており、後にNATINと結(jié)婚する伊藤かずえも出演している。
メンバー全員がLUNA SEAを尊敬していたり、インディーズ時(shí)代に町田PLAY HOUSEを拠點(diǎn)としていた為、LUNA SEAの弟分バンドでもある。特に、栄喜は元LUNA SEAのボーカル河村隆一を尊敬している。また、淳士は元LUNA SEAのドラマー真矢に憧れてドラムを始め、一時(shí)期LUNA SEAのローディーをしていた為に、師弟関係でもある。。LUNA SEAの2ndアルバム「IMAGE」のスタッフの中に、ローディーとして、淳士の名前がある。ただし、スペルは"JYUNZI"と表記されている。LUNA SEAのインディーズ時(shí)代のライブビデオ「IMAGE OR REAL」に真矢のアップになると淳士の頭が映る。
1994年頃當(dāng)時(shí)LUNA SEAのRYUICHI(現(xiàn)?河村隆一)がDJを務(wù)めていた『ミッドナイト?ロック?シテ?!?※FM NACK5でオンエアされていたラジオ番組。月~金曜日25時(shí)~27時(shí)でLUNA SEAは木曜日擔(dān)當(dāng)。後SIAM SHADEも火曜日擔(dān)當(dāng)になるが、後述の栄喜脫退騒動(dòng)もあって半年で降りている。)の『インディーズ?ナイト』というコーナーに呼ばれ、デモテープの曲をかけてもらって以降、口コミで一気にライブでの動(dòng)員數(shù)が増えた
メンバー全員が格闘技好き、さらには全員何らかのスポーツを好んでいた事からライブでのMCやライブのノリはスポコン調(diào)であった。
ボーカルの栄喜の先輩に吉田秀彥がおり、その縁もありバンドは何かと世話になっていた。殆どのアルバムの[special thanks]のところに彼の名前が載っている。ちなみに解散後、彼の紹介でJ-ROCKの社長を紹介してもらいACIDやソロ活動(dòng)をしている。
広島のライブハウスでライブをしたときに観客の重みで床が抜けたことがあり、後に弦楽隊(duì)3人が雑誌「バンドやろうぜ」で「バンドでのエピソードは?」と聞かれたときに3人そろってその事件を答えていた。結(jié)局そのときは棟梁が來るのを待ってライブを再開したようである。
1997年4月、栄喜は一度脫退を宣言し、一時(shí)工事現(xiàn)場(chǎng)で働いていたことがある。そのときは、工事現(xiàn)場(chǎng)の同僚にSIAM SHADEのファンがいて、その人の説得によりすぐに復(fù)帰している。
後の韓流ブームよりずっと前の2000年に、當(dāng)時(shí)日本人の大規(guī)模公演が解禁されたばかりの韓國で行われた釜山ロックフェスティバルに日本のロックバンドとして初めて參加するなど韓國のメディアからも注目を集めた。
あまり知られてはいないが、ツインボーカルのバンドである。本來、別のバンドに移籍するはずだった栄喜が、後釜としてKAZUMAを紹介したのだが、栄喜がそのまま居座ったため、この形になった。(KAZUMAを引き込む為に?自分は移籍するから後は頼む?と言っただけで、そもそも移籍する気はなかったともいう。)
栄喜は、1996年まではCHACKと名乗っていた。由來は、先輩から「好きなミュージシャンは誰だ?」と聞かれ、「セバスチャン?バック(元スキッド?ロウ)です」と答えたら、「お前はこれからイマスチャン?チャックだ」と言われたことから來ている。
故人中村新一(元チーフマネージャー)追悼の意を込め、2007年11月18日、日本武道館にて一夜限りの再結(jié)成ライブを行なった。なお、翌19日は中村氏の誕生日であり、存命であれば50歳であった。ライブ終了後メンバー+極少數(shù)のスタッフで中村への追悼の意をこめた打ち上げを行った。
大事件
1991年3月 「女の子にもてたい!」と思った栄喜が友人のNATINを誘ってSIAM SHADEの母體となるバンド「POWER」を結(jié)成。
1991年 その後、ホットウェーブのコンテストに參加してみごと優(yōu)勝。演奏曲は「リアライズ?マイ?ドリーム」。ちなみに準(zhǔn)優(yōu)勝したのが「FIFTY50/FIFTY50」という當(dāng)時(shí)KAZUMAがいたバンド(KAZUMAとはコンテストの直前に栄喜とNATINが運(yùn)命的に會(huì)場(chǎng)近辺のパチンコ屋で出會(huì)う)。POWERの他のメンバーがやめてしまったので昔から友達(dá)だったDAITAを誘ってみるが「音楽が合わない」とすぐに脫退。その後、知り合った「あたる」と新バンド「ataru?を結(jié)成。
1992年 「FIFTY50/FIFTY50」が解散して「LOVE JETS」というバンドでボーカルをしていたKAZUMAを栄喜が「俺はもうすぐ辭めるから」と言ってメンバーに入れる。結(jié)局、栄喜は辭めなかったのでツインボーカルになる。その後DrにEIが加入する。
1993年 パチンコでもうけた100萬円近くを使って4曲入りデモテープを制作し無料配布する。これと同時(shí)にバンド名を「SIAM SHADE」に改名する。意味は「密接する影」。7月、「やっぱりギターはDAITAしかいない」という話になり、行方のわからなかったDAITAを探し出してバンドに入ってもらう。當(dāng)時(shí)はかなりのビジュアル系だったのでDAITAは髪が伸びるまでカツラをかぶってライブに出ていた。
1994年 5月に淳士加入。12月、1stアルバムSIAM SHADEがオリコンインディーズチャートで初登場(chǎng)2位を記録。
1995年 8月の渋谷公會(huì)堂のワンマンライブでの前半のコント內(nèi)で高木ブーと共演。
1995年10月、1stシングル『Rain』でメジャーデビュー。
1997年 6thシングルの『1/3の純情な感情』が「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」のエンディングテーマとなり大ブレイクを果たす。
2000年 1月1日、橫浜アリーナにおいて元旦ライブを行う
2000年 8月29日にインディーズ時(shí)代からよく行っていた男子限定ライブ「男樹」を渋谷ON-AIR EAST(現(xiàn)在のShibuya O-East)にて行う。なお、前日にも大阪で同様のライブを行っている。
2001年 12月28日に念願(yuàn)であった日本武道館で初ライブ。
2002年 年頭に解散を発表。
2002年 3月10日、再び日本武道館のステージに立ちラストライブを行う。この日をもって解散。
2007年 11月18日 一夜限りの再結(jié)成。(彼らの元チーフマネージャーである中村新一が逝去した為、追悼の意味を込めて一夜限りの武道館LIVEを決行。)動(dòng)員數(shù)約1萬3500人。