ふきのとう

簡介: ふきのとう簡介ふきのとう(FUKINOTOU)は、山木康世と細坪基佳によるフォークデュオ。1970年代のフォーク/ニューミュージックブームの牽引役となったグループのひとつ。ともに北海道出身。來歴1972年、北海學(xué)園大學(xué)にて山木康世と細坪基佳と他二名で、マッド?スライド?スリムを結(jié) 更多>

ふきのとう簡介

ふきのとう(FUKINOTOU)は、山木康世と細坪基佳によるフォークデュオ。

1970年代のフォーク/ニューミュージックブームの牽引役となったグループのひとつ。ともに北海道出身。

來歴

1972年、北海學(xué)園大學(xué)にて山木康世と細坪基佳と他二名で、マッド?スライド?スリムを結(jié)成。その後、山木康世と細坪基佳の二人でふきのとうの前身である、メロディーを結(jié)成。ニッポン放送系列「バイタリス?フォークビレッジ」アマチュア?フォークコンテスト札幌地區(qū)予選に出場するが、一次予選落ちした。その後、NHK札幌放送局のテレビ番組にふきのとうに改名して出演した。1973年、コンテストに多數(shù)出場し、ヤマハ?ライトミュージック?コンテスト北海道大會にて「帰り道」で優(yōu)秀グループ賞、また、日本テレビ『キンキン&ムッシュのザ?チャレンジ!!』で準優(yōu)勝した経験がある。1974年、「白い冬」でデビュー[注 3]。以後「風(fēng)來坊」「春雷」「やさしさとして想い出として」などがヒット。ふきのとうの楽曲は、記録よりも記憶に殘るという意味のヒット曲が多いのが特徴である。1981年、ふきのとうのプライベートレーベル「Silverland」(シルバーランド)を設(shè)立。その第1弾として、同年の5月21日にシングル「メロディー」とアルバム『D.S. ダルセーニョ』を発売した。この頃から、二人は相次いでソロアルバムを発表。ともに2枚ずつ制作している。1984年、日比谷野外音楽堂にて、「ふきのとうデビュー10周年記念コンサート」を行う。予約の定員を遙かに上回る4萬通の応募があった。1986年、ふきのとう最初で最後の日本武道館コンサート「緑輝く日々」を行い、1萬人を動員する[1]。この頃から、山木と細坪の間には亀裂が入り始める。背景には、楽曲?歌唱力雙方で力をつけてきた細坪と、「あくまで自分の曲を細坪が歌うことがふきのとうのスタイルである」とこだわった山木との考えの違いが大きくなっていったということがあった。1992年、5月8日に北海道厚生年金會館で行われたコンサートツアー『ever last concert』を最後に、18年間続いたグループを解散。ステージに登場した二人はまず、互いにがっちり手を握り合い、曲を次々に披露。アンコールは2回を超えて、山木が「守衛(wèi)のおじさんがいいって言ったから」と、コンサートは夜10時を過ぎても終わらなかった。解散後、ふきのとうにとってのメモリアルイヤーなども含め、2017年現(xiàn)在まで一度も再結(jié)成をしていない。これに対して細坪は「お互いにやり殘したことがまだある。だから再結(jié)成はまだない。」と話しており[2]、山木も、「ないだろうなあ。もしやるとしたら、現(xiàn)役引退の最後の最後でしょう。」と語っている。

音楽性

二人ともに作詞?作曲をしリードボーカルもとるが、シングルでは山木が作った歌を細坪がメインに歌い、山木が6度下のハーモニーを重ねるという獨特なパターンが主で、後述のように、山木はこのパターンこそがふきのとうであると考えていた。細坪は、風(fēng)や雨を表現(xiàn)するのにアコースティック?ギターやストリングス、ピアノの音色を最大限に活用して「ふきのとう」ではできなかった細坪ワールドの奧行きを示し、山木は「ふきのとう」でできないことは「自分の楽曲の原點を示すこと」と考え、ハーモニーに頼らずに、自転車で感じる空気、友や母への想いを飾らずに音でスケッチして見せた。全國コンサートツアーをコンスタントに続け、1978年には年間250本のコンサートを行った。また、沖縄県で特に人気が高く、同じく1978年には沖縄限定シングル「ここは沖縄」を発売している。