簡介: 小簡介?Temiyan?テミヤン(宮手健雄/Takeo Miyate)僕は、浜辺のフォークシンガー。?生まれは、海まで5分とかからない、平塚市虹ヶ浜。昭和30年代、家の周りにはまだ、空き地や松林がたくさん殘っていました。?遊びは松の木の上の基地作り、松ぼっくりを山ほど集めて、攻撃 更多>
小簡介?
Temiyan?テミヤン(宮手健雄/Takeo Miyate)
僕は、浜辺のフォークシンガー。
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生まれは、海まで5分とかからない、平塚市虹ヶ浜。昭和30年代、家の周りにはまだ、空き地や松林がたくさん殘っていました。
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遊びは松の木の上の基地作り、松ぼっくりを山ほど集めて、攻撃に使い、あきたら羽根のついた小さな松の実を割って食べたなぁ~。地引き網(wǎng)を手伝ったり、シジミや石ハマグリもとった、ハゼやキス、イシモチ、ガザミ、釣りもたくさんやった。防砂林には、けもの道のように人の通った後が、海まで続いていて、浜辺には浜晝顔の花、コウボウ麥が広がる砂浜。夏ムッとする草いきれ、ナデシコ、ツユクサ、月見草。お風(fēng)呂は擦り切れだらけで痛かった。
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中學(xué)生時代、當(dāng)時はまさにフォークソングブーム真っ盛り、文化祭で同級生の清水君が唄った、岡林信康の差別問題をテーマにした「チューリップのアップリケ」に衝撃を受け、質(zhì)屋で買ったテスコのエレキギターをヤマハのフォークギターに持ち替えたのでした。それまで友達(dá)とのプロレスごっこがすべてだった僕は、徐々に社會とは?生きてゆくとは?自分とは?次々と現(xiàn)れる頭の中の疑問符を誰に相談することも出來ず、パンパンに膨れて抱えきれなくなっていました。
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気がつけば、能天気に幼かった少年は、修學(xué)旅行にも參加出來ないほどナイーブになってしまいました。
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茅ヶ崎での新しい生活は、何もかもが新鮮でした、仲の良い友達(dá)がいない代わりに干渉されず自由でもありました。高校では、テニス部と受験用石膏デッサンそしてBANDの練習(xí)、に明け暮れ、又本來の能天気な気質(zhì)に戻ってゆきました。
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大學(xué)では、日本畫を?qū)煿?、基礎(chǔ)はしっかり習(xí)いましたが、作品らしいものは2~3點描いたでしょうか、(裸婦デッサン、クロッキーにはドキドキしたなぁ~)2年の途中から、先輩に紹介された、イタリアンレストランでの弾き語りのバイトやライブハウスが楽しくなり、そのまま學(xué)校へはいかなくなり、學(xué)期末に中退の手続きをしたのを覚えています。
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その後、高円寺の稲生座や下北沢のバケツハウスなど都內(nèi)の濃い~ライブハウスで多少の違和感を持ちながら、地方出身のフォーク侍と闘うように唄っていました。
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同じ頃、地元茅ヶ崎の住宅地にあらわれた、いまや伝説の「Cafeブレッド&バター」でバイトをはじめ、唄うようにもなってゆきました。ブレバタのお店で出會った仲間たち、そして、(ブレッド&バター)幸矢さん、二弓さんの兄弟との出會いはその後の僕の道を、決定づけたターニングポイントになっているとおもいます。何しろ語りつくせないほど面白かった數(shù)年でした。
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今僕の歌は、海辺を舞臺にそこで生活する人達(dá)の日常の機(jī)微を、飾らず素直に表現(xiàn)しようと思っています。
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現(xiàn)在、茅ヶ崎の海まで歩いて5分ぐらいの古い家に、デッキを作ったり、絵を描いたりして、いろいろと工夫して家族で生活してます。今まで経験してきた事、そしてこれから年を重ねるごとに見えてくる思いを、フォークソングを唄い始めた中學(xué)生の頃と同じ気持ちで唄っていけたら、幸せです。
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そう、僕は今でも、ただのフォーク少年のままなのです。