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渥美 清(あつみ きよし、 - )は、日本の俳優(yōu)。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。愛稱は、寅さん、風(fēng)天(俳號)
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1928年(昭和3年)3月10日に、東京府東京市下谷區(qū)車坂町(現(xiàn)?東京都臺東區(qū)上野七丁目)で地方新聞の新聞記者をして 更多>
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渥美 清(あつみ きよし、1928年3月10日 - 1996年8月4日)は、日本の俳優(yōu)。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。愛稱は、寅さん、風(fēng)天(俳號)
小簡介
1928年(昭和3年)3月10日に、東京府東京市下谷區(qū)車坂町(現(xiàn)?東京都臺東區(qū)上野七丁目)で地方新聞の新聞記者をしていた父友次郎と、元小學(xué)校教諭で內(nèi)職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。
1934年11月、上野の板橋?qū)こPW(xué)校に入學(xué)。1936年、一家で板橋區(qū)志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小學(xué)校へ転入。小學(xué)生時代はいわゆる欠食児童であったという。加えて、病弱で小児腎臓炎、小児関節(jié)炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為學(xué)校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢聲や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を?qū)W校で披露すると大変な評判だったという。
1940年に板橋城山高等小學(xué)校に入學(xué)。第二次世界大戦中の1942年に巣鴨中學(xué)校に入學(xué)するが、學(xué)徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出される。1945年に同校を卒業(yè)するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災(zāi)し焼け出される。偶然にもこの日は渥美の17歳の誕生日であった。
卒業(yè)後は工員として働きながら、一時期、擔(dān)ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。
1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館「阿部定一代記」でのチョイ役で舞臺初出演。
中央大學(xué)経済學(xué)部入學(xué)後、船乗りを志して退學(xué)したが母親に猛反対されたため斷念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優(yōu)の道を歩むことになった。
なお、當(dāng)初の蕓名は「渥美悅郎」であったが、無名時代の極初期に參加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悅郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。"渥美"は愛知県の渥美半島から採ったとされる。
1951年、東京都臺東區(qū)淺草のストリップ劇場(百萬弗劇場)の専屬コメディアンとなる。
1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。
1954年、肺結(jié)核で右肺を摘出しサナトリウムで約2年間の療養(yǎng)生活を送る。このサナトリウムでの療養(yǎng)體験が後の人生観に多大な影響を與えたと言われている。また、復(fù)帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成會病院に1年近く入院する。再復(fù)帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。
1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映畫にデビュー。
1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一、関敬六とスリーポケッツを結(jié)成。しかし、數(shù)ヵ月後には脫退している。
1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節(jié)』に出演。コメディアン?渥美清の名を全國區(qū)にした。
1962年公開の映畫『あいつばかりが何故もてる』にて映畫初主演を務(wù)める。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。
同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケにおいて、海に飛び込むシーンでは右肺を摘出していたため海に飛び込めず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。
當(dāng)時、複數(shù)の映畫が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現(xiàn)場では、映畫『切腹』(仲代達矢、巖下志麻、三國連太郎、丹波哲郎)の撮影現(xiàn)場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優(yōu)や監(jiān)督と接することとなる。
1963年の野村芳太郎監(jiān)督の映畫『拝啓天皇陛下様』で愛すべき無垢な男を演じ、俳優(yōu)としての名聲を確立する(続編では阪急や近鉄で活躍したロベルト?バルボンが連合國兵士役で出演した)。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構(gòu)想が練られた。
1965年公開の、羽仁進監(jiān)督の『ブワナ?トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映畫『喜劇列車シリーズ』(喜劇急行列車、喜劇団體列車、喜劇初詣列車)(1967年~1968年)なども有名である。
1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。腳本は山田洋次と森崎東が擔(dān)當(dāng)した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言うストーリーに抗議が殺到した。
1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹で映畫を製作。これが予想に反し大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監(jiān)督の映畫『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎("フーテンの寅")役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映畫のシリーズは、國民的映畫として日本中の多くの人たちに親しまれた。映畫のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。
1972年、渥美プロを設(shè)立し、松竹と共同で映畫『あゝ聲なき友』を自身主演で製作公開する。
1975年、松竹80周年記念として制作された映畫『友情』に出演。
1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務(wù)める。同作品は現(xiàn)在も続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁蕓術(shù)祭のテレビ部門ドラマ部の優(yōu)秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事 旅路の果て』が、1979年には『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。
映畫『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。當(dāng)初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映畫『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出來なかった。特に1977年『八つ墓村』が松竹始まって以來のヒットとなり、渥美の學(xué)者ふうな金田一耕助も好評を得ながら、シリーズ化権を東寶に抑えられていたため1本きりとなったことは大きな岐路となる。
1979年(昭和54年)4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど~昭和のこころ 古賀政男~』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるにはいたらなかった。また、この時期、今村昌平監(jiān)督が「復(fù)讐するは我にあり」の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で斷っている。
1980年代以降になると、當(dāng)時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。1988年(昭和63年)、紫綬褒章受章。
その後は、主演以外での參加も次第に減っていき、1993年に公開された映畫『學(xué)?!护耗肖悉膜椁い琛互伐戛`ズ以外の作品への最後の出演作品となった、遺作は亡くなる直前まで出演した48作目「男はつらいよ 寅次郎紅の花」。
後年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。
ところがこの事情を知らない映畫撮影の見物客は、渥美に聲をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。體調(diào)が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。
また體調(diào)が悪化してからの作品を見ると46作では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作では歌聲が枯れ、第48作では座ったままほとんど動かなくなるなど痛々しい演技である。49作目は秋からクランクインが予定されていた。田中裕子がマドンナ役の予定だった。
病気については1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治醫(yī)からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演。48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。
1996年7月に體調(diào)を崩して同月末に手術(shù)を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの狀態(tài)だった。山田監(jiān)督の弔辭によれば、病院で癌の手術(shù)が手遅れの狀態(tài)だった後、病室で震えていたとの事である。また同年6月に49作の映畫化の件で話し合い、肉を食べ撮影に意欲を燃やしていたとのことである。
1996年(平成8年)8月4日、転移性肺癌のため東京都文京區(qū)の順天堂大學(xué)醫(yī)學(xué)部附屬順天堂醫(yī)院にてこの世を去る。68歳沒。「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺體は東京都荒川區(qū)內(nèi)の火葬場で荼毘に付された。訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。
そして8月13日には松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの會」が開かれ、山田洋次が
5年前に渥美さんの病気を知り、予斷を許さないのは知っていました。體の衰えが目立ち始めて、小島の急な坂を登るときは、とてもつらそうだった。この時、この陽気な男が、映畫から手を引く日も近いと思っていました。そろそろ解放してあげたい、と思いながら、もう一作だけ、もう一作だけ、もう一作何とかと思って48作も撮ってきました。醫(yī)師から、正月遺作となった映畫に出演できたのは、奇跡といわれました。ああ、悪いことをしました。後悔しています。つらい思いをさせてすいませんでした。7月に入院して、肺の手術(shù)をした後、経過が思わしくなくて、ベッドに起き上がることも出來ず、うつむいたままと聞きました。何故そんなに苦しめたのか。27年間、映畫を作る喜びを與えてくれてありがとう。スタッフも幸せでした。心からお禮を申し上げます
?
という弔辭を読み上げた。
世間では、渥美清の死を寅さんの死と捉えて報道された。死後、日本政府から渥美に國民栄譽賞が贈られた。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く國民に喜びと潤いを與えたことが受賞理由。俳優(yōu)で國民栄譽賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。
妻は熱心なカトリック信徒で、彼自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗禮を受けていた事が明らかになっている。
渥美は亡くなるまで蕓能活動の仕事をプライベートに持ち込まなかった。そのため、渥美の自宅住所は蕓能?映畫関係者や蕓能界の友人にも知らされていなかった。